| 1900年 |
1月1日父好水と母やつの二男として出生。
(本籍:岐阜県加茂郡八百津町八百津)
八百津町で幼少時代を過ごし、その後、父の仕事の関係で三重県や名古屋市で生活する。 |
| 1917年 |
愛知県立第五中学校を卒業後、父の希望により京城医学専門学校を受験するも、白紙答案を出し不合格となる。 |
| 1918年 |
早稲田大学に入学したが、1919年中退し、外務省の留学生としてハルピンに留学。 |
| 1924年 |
任外務書記生となり、2月満州里在勤命令、12月にはハルピン在勤命令がでる。 |
| 1932年 |
満州国外交部特派員公署事務官となり、翌年には北満州鉄道の譲渡を巡りソ連との交渉を始める。
1935年、日満ソ三国の協定が成立。 |
| 1937年 |
ソ連勤務を命じられていたが、ソ連から入国を拒否され、フィンランドのヘルシンキ公使館勤務になる。 |
| 1939年 |
リトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられる。 |
| 1940年 |
7月、ユダヤ難民への日本通過ビザの大量発給を始め、8月26日までに、計2,139家族に日本通過ビザを出す。
8月29日カウナス領事館を閉鎖。
9月5日カウナス駅より国際列車にてベルリンへ出発。
チェコのプラハ総領事館に勤務。 |
| 1941年 |
2月28日に、ドイツ領のケーニヒスベルグ総領事館勤務を命じられ、11月にはルーマニアのブカレスト公使館勤務を命じられる。 |
| 1945年 |
ブカレスト郊外の捕虜収容所に収監される。 |
| 1947年 |
4月に帰国(九州博多)。
6月に外務省退官。 |
| 1960年 |
商社の事務所長としてモスクワ赴任。
以後、会社を二度変わったが、引き続き現地で勤務。 |
| 1968年 |
千畝がビザを発給して助かったニシュリ氏と28年ぶりに再会する。 |
| 1969年 |
難民時代に杉原が助けたバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受ける。 |
| 1975年 |
退職 |
| 1985年 |
イスラエル「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。
日本人では最初。 |
| 1986年 |
神奈川県鎌倉で死去。 |