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杉原千畝記念館


杉原千畝はどういう人
杉原千畝の生い立ち
杉原千畝の仕事
杉原千畝ビザ発給の決断
杉原千畝帰国後
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人道の丘
杉原千畝はどういう人
杉原 千畝杉原 千畝(1900年 - 1986年)

 あなたはミスター・スギハラの名前を知っているでしょうか。世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官。
 1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。
 前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト。
 そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
 このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
 「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。

 杉原千畝は、ユダヤ人へのビザ発給により約6千人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った外交官ですが、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。

 1900年1月1日、八百津町で誕生。小さい頃からおとなしくて優しい性格。それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢一ミスター・スギハラ。

 ユダヤの人たちはこの名前を決して忘れることはないでしょう。

 杉原千畝が生まれ育った自然豊かな地に建つこの記念館で、千畝の真の姿に触れてください。
 あなたにも、努力・柔軟さ・勇気を持って行動すれば、将来においてきっと社会に貢献できるはずです。

杉原千畝の生い立ち
八百津で生まれた千畝 八百津で生まれた千畝(1900年〜1922年)

1900年、千畝はごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。英語教師となる夢を目指し勉学に励みますが生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に、猛勉強の末合格しました。そしてロシア語研修生として、人生の方向転換をしたのです。
写真は杉原一家(後列中央が千畝)


杉原千畝の仕事
各地における千畝の仕事 各地における千畝の仕事(1923年〜1940年)
外交官時代 ハルピン
ハルピンにてその能力を見込まれ、千畝は
外交官としての希望ある一歩を踏出します。一方、ヨーロッパではヒトラーによるナチの独裁が始まり、ユダヤ人の命が脅威にさらされはじめていました。
写真は満州国外交部勤務時の千畝。
   
外交官時代 外交官時代 リトアニア・カウナス
リトアニア・カウナスに、日本領事館開設を命じられた千畝は、同時にソ連からの情報を集めることを命ぜられます。戦争の激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、彼らの受け入れ先はほとんど無くなってしまいました。
写真は「ユダヤ人入るべからず」と書かれた看板の前で。(1939年)
   
そして1940年 そして1940年、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために、日本への通過ビザを求め、領事館前におしかけたのです。
写真は領事館前でビザを求めるユダヤ避難民たち。(1940年)


杉原千畝ピザ発給の決断
千畝の決断 千畝の決断(1940年)

「ビザを出してもいいですか。」日本の外務省へあてた電報の帰ってくる答えは「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない。」というものでした。ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、命令に従って外交官としての輝かしい道を守るべきか。千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。
写真は当時そのままを再現した記念館内の『決断の部屋』


杉原千畝帰国後
1947年 1947年、幸子夫人と二人の子供を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した杉原を待っていたのは独断でビザを発行したことの責任による外務省からの解職。
1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。彼はボロボロになつた当時のビザを手にして涙をこぼして杉原に礼の言葉をのべたのです。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは杉原のことを探し続けていたのでした。
写真はバルハフティック元宗教大臣と。(1969年)
   
イスラエル政府より表彰 イスラエル政府より表彰される

1969年、難民時代に杉原が助けたバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受ける。
1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰。
1985年には「諸国民の中の正義の人」としてイスラエル政府から表彰されています。
この翌年、1986年死亡、享年86歳。
写真は鎌倉での杉原千畝夫妻


杉原千畝の生涯
1900年 1月1日父好水と母やつの二男として出生。
(本籍:岐阜県加茂郡八百津町八百津)
八百津町で幼少時代を過ごし、その後、父の仕事の関係で三重県や名古屋市で生活する。
1917年 愛知県立第五中学校を卒業後、父の希望により京城医学専門学校を受験するも、白紙答案を出し不合格となる。
1918年 早稲田大学に入学したが、1919年中退し、外務省の留学生としてハルピンに留学。
1924年 任外務書記生となり、2月満州里在勤命令、12月にはハルピン在勤命令がでる。
1932年 満州国外交部特派員公署事務官となり、翌年には北満州鉄道の譲渡を巡りソ連との交渉を始める。
1935年、日満ソ三国の協定が成立。
1937年 ソ連勤務を命じられていたが、ソ連から入国を拒否され、フィンランドのヘルシンキ公使館勤務になる。
1939年 リトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられる。
1940年 7月、ユダヤ難民への日本通過ビザの大量発給を始め、8月26日までに、計2,139家族に日本通過ビザを出す。
8月29日カウナス領事館を閉鎖。
9月5日カウナス駅より国際列車にてベルリンへ出発。
チェコのプラハ総領事館に勤務。
1941年 2月28日に、ドイツ領のケーニヒスベルグ総領事館勤務を命じられ、11月にはルーマニアのブカレスト公使館勤務を命じられる。
1945年 ブカレスト郊外の捕虜収容所に収監される。
1947年 4月に帰国(九州博多)。
6月に外務省退官。
1960年 商社の事務所長としてモスクワ赴任。
以後、会社を二度変わったが、引き続き現地で勤務。
1968年 千畝がビザを発給して助かったニシュリ氏と28年ぶりに再会する。
1969年 難民時代に杉原が助けたバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受ける。
1975年 退職
1985年 イスラエル「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。
日本人では最初。
1986年 神奈川県鎌倉で死去。

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